初めて長嶋さんにインタヴューしたのは、「地獄の猛練習」といわれた1979年秋の伊東キャンプのときだった。
「地獄、いいですねえ。若い選手が天国でお釈迦様の隣に座っていたって退屈でしょうがないでしょう。地獄のほうが楽しいですよ」
と、ダイナミックなプレイのイメージそのままに語られた言葉が忘れられない。
2度目は'83年の秋、モントリオールでの大リーグ観戦の折だった。アポなしで取材を申し込んだところ、どうぞどうぞということになって、10分後、ホテルの部屋にお邪魔すると、ネクタイにブレザーの「正装」で迎えてくださった。
大リーグのことを山ほど語られ、日本に必要なのは大リーグのシステムであることを力説された。いまの大リーグ・ブームに火をつけたのは長嶋さんだと、私は思っている。
3度目がこのインタヴューである。正直言って不安だった。浪人生活8年目。いわゆるスポーツ大使として世界中を飛び回られていた頃である。伊東で野球を熱く語り、モントリオールで大リーグを熱く語られた頃の情熱もダイナミックな発想も、涸れてしまったのではないかとしんぱいになったのだ。
そこでストレートに野球のことを訊くインタヴューに使用と考え、綿密なメモをもよにさんざん考え抜いてコンテを立てた。取材場所は成田空港の一室。コンテに沿って、空振りの話から始めると、乗ってきた、乗ってきた。素晴らしい野球の話が次々と飛び出してきた。
思えば当時、マスコミが長嶋さんに訊くことと言えば、まず球界への復帰について、それにプライベートなことや、野球以外のスポーツの話題だった。長嶋さんにとって、野球の話ができることが嬉しかったんだと思う。何で今まで、それを訊いてくれなかったの、待ってましたという気持ちでおられたのかもしれない。
インタヴューを終え、あまりの面白さに、編集担当のA君と握手を交わした。このときのコンテ、テープ起こし、完成原稿はすべてとってある。このインタヴューは私の自信作であり、スポーツライターと視点メルクマールとなる作品だったと自負している。
1年後、今度は横浜中華街の長嶋さん行きつけの中華料理店で、ふたたび野球について話してもらった。このインタヴュ−はナンバー1228号(89年10月5日号)に「個人プレイのススメ」というタイトルで発表したが、このときも面白い話を山ほど聞くことができた。
たとえば「ライバル」について。長嶋さんにとって、王さんは断じてライバルではなかった。それはチームメイトだからというのではなく、バッターとバッターではライバルになり得ない、直接対決し、勝負し、雌雄を決する闘いを直接するピッチャーこそがライバルだというのだ。目から鱗だった。
長嶋さんの話はわかりにくいと言う人は多いが、私はそうは思わない。むしろ聞き手の意図の核心を直感的に察すること、スピーディに自分自身の言葉で答えるということに措いて、彼の右に出る人はいないのではないか。
ナンバーではもう一度、監督復帰2年目に日本シリーズに勝利し、日本一になったなった直後の'94年12月、ホークス監督就任が決まった王さんとともに、それぞれ野球の未来を語るクロス・インタヴューを試みた(357号='95年1月15日号)。残念ながら、このときの印象はいささか薄い。浪人時代のように自由奔放に野球を語るのではなく、監督としての発言−−厳しくいえば、政治的発言が混じるようになった。
それでも私は、これらのインタヴューを通じて、長嶋さんは僕らの生きる力になる人であり、野球にとって大切な人だと、つくづく感じた。近頃「カリスマ」という言葉が安易に使われているが、やっぱり「カリスマ」という言葉は、私は、長嶋さん以外には使えない言葉だと確信している。
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このあと、2000年の「ON決戦」と呼ばれた日本シリーズの前にも、雑誌『スポーツ・ヤァ!』(角川書店)で長嶋茂雄さんにインタヴューさせてもらい、そのときは、他球団の4番バッター(清原、江藤智)やエース(工藤)を獲得したことに対して批判の声が高く、オーナーの渡邊恒雄氏に対しても「プロ野球の独裁者」と呼ばれてることに対して質問し、「今は、そんな話をするときじゃねえだろっ!」と怒鳴られた。その後、日本代表チームの監督として、アテネ五輪のアジア予選の采配をとられたときに、札幌ドームでの試合のあと、記者会見で手を挙げて、質問に答えてくださったりもした。が、99年の秋、松井とホームラン王争いをしていたスワローズのペタジーニに対して、敬遠を支持するコーチ陣の指示を止めなかったこともあり、監督としての長嶋茂雄が、徐々に「長嶋茂雄的」でなくなってきていたことに残念な思いも抱いたものだった。とにかく、今年、昭和百年の区切りの年に、長嶋茂雄さんが逝去されたことを悼む。合掌。
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