夏の甲子園大会(第107回全国高等学校野球選手権大会=主催:朝日新聞社・日本高等学校野球連盟=高野連)の広島県代表として出場し、1回戦を勝ち進んだ広陵高校が、8月10日に暴力事件の発覚で、出場辞退を発表した。
「SNS上での誹謗中傷が激しくなり大会の運営に支障をきたしたことや、高校野球の名誉や信頼を損ねたこと」が理由だという。
大会途中の出場辞退は史上初でもあり、新聞・テレビなどのメディアもこの「事件」を大きく取りあげ、小生にもテレビ1社と新聞2社から、感想を求める電話がかかってきた。
が、この種の事件が起こるたびに思うことだが、メディア(記者)の的外れの質問には、ウンザリせざるを得なかった。
「今回の事案に対する高野連の"処分"は適切だったと思いますか?」
教育機関(高等学校と高野連)なら高校生の不祥事に対しては、"処分"ではなく"指導"すべきだろう。が、高野連は、過去に"処分"を繰り返すだけで、野球部内の暴力行為をなくすための"指導"を行ったことは聞いたことがない。
さらに高野連が、暴力行為をなくすための"指針"を示したという話も、寡聞にして聞いたことがなく、だからメディアの記者が間違った言葉を使うのも仕方がないのかもしれない。
要するに高野連は(多くの高等学校の指導者やメディアの記者たちも)、高校の野球部で暴力行為を行うことが「何故いけないのか?」という問いに対して明確な回答を持ち合わせておらず、ただ「暴力はいけない」という感情論や一般論で暴力を否定しているだけなのだ。
だから野球部における暴力の多くが、"指導"という名目で行われていることに対して、明確な"暴力否定の真の指導"を打ち出せないでいるのだろう。
本連載では何度か書いてきたことだが、全てのスポーツは、古代ギリシアと近代イギリスの(ような)民主主義社会から誕生した文化にほかならない。
つまり暴力(武力)によって社会を支配する王政や独裁政治や専制主義の社会からはスポーツ文化は生まれず、非暴力の話し合いによる議会や、非暴力による選挙という行為で選ばれる指導者によって政治を司る民主主義社会が成立して初めて、暴力を否定するスポーツという文化が生まれる。
すなわち、殴り合いはボクシングに、掴み合いはレスリングに、太陽(ボール)の奪い合いはサッカーやラグビーやホッケーに、そして地上権力(バット)で世界を支配する太陽(ボール)を打って遊ぶ(プレイする)ベースボール型の球戯(ボールゲーム)に……といった具合に、暴力否定の文化としてのスポーツが誕生するのだ。
古代ギリシアや近代イギリス以上に、経済的優位に立っていた古代ペルシア帝国やイスラム帝国、モンゴル帝国や中華帝国では、スポーツと言える文化が誕生しなかった。
それは、それらの地域では暴力(武力)を否定する民主主義社会が生まれなかったからなのだ。
ということは、高校野球の指導者が高校勇治たちに暴力をふるったり、高校の野球部員(スポーツマン)が後輩に向かって暴力をふるうのは、自分が行っているスポーツ(野球)という文化の存在理由を、根底から否定することになるわけだ。
ただ残念なことに、スポーツという文化が、非暴力が基本の民主主義社会からしか生まれない、という「真理」を知っている日本人は、極めて少ない。
その「真理」はユダヤ系ドイツ人の社会学者のノルベルト・エリアス(1899〜1990)が打ち立てた説で、多木浩二『スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書)に詳しく解説されているのだが、それを知らずに一般論で「暴力はいけない」と言うだけでは、「3発や4発も殴るのはダメだが、1発くらいなら気合いを入れるために必要」といった謬論が、指導者の屁理屈として堂々と罷り通ったりもする。
そもそも日本の体育教育に暴力(体罰)が蔓延(はびこ)ったのは、第二次大戦で徴兵され、暴力的な軍隊生活を経験した帰還兵が少なからず体育教師となり、1964年の東京五輪をキッカケに「鬼の大松(大松博文)」(女子バレーボール監督)や「八田イズム(八田一郎)」(日本レスリング・チーム監督)の指導法が、「体罰容認の根性論」と誤解されて認識され、流行した結果とも言える。
そんな影響もあって、過去の高校野球の暴力の酷さは、アメリカ野球殿堂入りしたイチロー氏も記者会見で、「これ以上の地獄はないという経験は、高校(愛工大名電高時代)の2年半」と語ったほどだ(『週刊新潮』8月14・21夏季特大号)。
その「地獄」は、4学年下の後輩によると、「グラウンドにボールが落ちていただけで、下級生は深夜に集合させられ、鉄拳制裁を受けます。さらにキツかったのは伝統の『ゴミ箱正座』でした。上級生の虫の居所が悪いと、金属製のゴミ箱の上に何時間も正座させられる。(略)金属の縁がスネの肉にめり込んで血が流れてきます」というものだったという。
これほどの暴力を見逃していた高野連にも唖然とするほかないが、当時の愛工大名電高野球部の監督も、2学年先輩の選手に「"チームにとって大事なイチローを守れ"とボディガード役を命じた」と、教育者としての指導を放棄した言葉を平然と語り、この記事を書いた『週刊新潮』の記者までが、《昨今の教育は甘っちょろい。社会の荒波を越えていけない》と、イチロー氏の高校時代の「地獄」の暴力行為を肯定賛美するかのような言葉で結んでいるのだ。
高校野球から暴力事件が面々と続いている原因として、スポーツ(野球)が暴力否定の民主主義社会から生まれたというエリアスの唱えた「真理」を誰も知らない――高野連の会長も、多くの高校野球部の監督や指導者たちも、夏の甲子園の主催者の朝日新聞社社長も、メディアの記者たちも、誰もが不勉強で知らないということが、根底にあるに違いない。
「暴力はいけない」と言い続けるだけで、高校野球から暴力排除に失敗し続けた主催者(高野連と朝日新聞社)は、高校球児を"処分"する前に、自分たちのスポーツに対する無知と無理解と不勉強を反省し、学習し直し、自己批判の声明を発表すると同時に、確固たる暴力否定の高校野球の指針を示すべきだろう。
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