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私事で恐縮だが、書評子の父親は大正生まれ。三度の応召の末、日中戦争の最前線で何度も銃創を負った陸軍軍曹だった。
それだけに本書のタイトルや、帯に書かれた「延長28回でも帰らない客、野球狂の大臣」という文字には少々違和感を覚えた。
死に瀕して戦っていた人々の「銃後」では、野球で騒いでいる人々がいたのだ!?
しかし本書を読み進むうちに、その違和感は霧消した。
「戦中」という時代にあって、多くの人々は野球というスポーツに何らかの救いを求め、満潮になれば海水が溢れるような野球場(洲崎球場)や、二階席が高射砲陣地となった後楽園球場などへ、足を運び続けたのだ。
日中戦争が開始された昭和12年の有料入場者数は約51万5千人。それが翌々年には、61万5千人近くとなり、昭和16年には巨人軍が初の黒字決算を計上。
「米英との戦争が本格化してきたというのに球場への客足はいっこうに衰える気配がな」く、昭和17年の公式戦入場者数は「80万人台を突破する勢い」にまでなった。
その客席には詩人の西条八十が「ジャンヌ・ダルク」と讃え、「この野球場を休みなく日毎に飾る白百合」と詠った美女もいれば、作家の久米正雄や詩人のサトウハチロー、近衛内閣で農林大臣を務めた有馬頼寧(戦後競馬界に有馬記念の名を残した)の姿もあれば、治安維持法違反で逮捕され、刑期を終えた元共産党員で経済学者の河上肇(『貧乏物語』の著者)や、野球賭博を仕切る胴元の姿も見られた。
「思想こそ異なるが、権力に反抗する同じ臭いをかぎ取ったのかもしれない」
選手たちも、応召を受けて軍の宣伝に利用された沢村栄治投手や三原脩内野手、スパイ容疑で常に特高に見張られていたスタルヒン投手など、なんとか野球を続けようとした多くの野球選手と球団関係者の懸命の努力を、著者は温かい眼差しで書き残す。
スポーツは古代ギリシアや近代イギリス、それにアメリカという民主主義社会からしか生まれない文化で、民主主義の本質は選挙や議会という暴力を否定する制度。
つまりスポーツ(野球)とは反暴力すなわち反戦、戦争を否定する上に成り立つ文化なのだ。そのことを深く再認識できる名著である。
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